2006年02月20日

赤池弘次 統計とエントロピ-

赤池弘次 統計とエントロピ-
数学セミナ- 21(12),2-12,1982/12(ISSN 03864960) (日本評論社)
・・・・・・ボルツマンの歴史的な業績を歪曲しその正当な評価を妨げている。(P.3)

ボルツマン・エントロピー(P.5)

ボルツマンのエントロピー
Boltzmann's entropy
[赤池弘次 ボルツマン OR Boltzmann]について、ウェブ検索で調べる

ボルツマンの業績の取り上げ方は、アインシュタインが規定したのかもしれない。
安孫子 誠也 エントロピー的世界
そして、プランクによって、墓碑銘となる。
さらに、シャノンをそそのかしたノイマンによって、シャノンのエントロピーが命名される。
このシャノン・エントロピーを、アインシュタイン‐プランクのエントロピーと等置した教科書的説明が2‐3代目世代によってなされる。といった流れか。
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2006年01月25日

プランク(著) ボルツマンの墓碑銘

ボルツマンの墓碑としてプランクがS=k log W という最終的には自分が書き下した式 -  キャッシュ -

ボルツマン 墓碑 S=k log W プランク
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2006年01月24日

松縄規 エントロピ・情報・統計

松縄規(Tadashi MATSUNAWA)教授 -  キャッシュ -
エントロピ・情報・統計
統計数理研究所彙報 32(2),207-230,1984(ISSN 0563685X) (統計数理研究所 〔編〕/統計数理研究所)
Boltzmannの仕事を踏まえたAkaike(1973)による情報量規準の発見……(P.207)
しかしそれ以前そして現在でも統計学におけるエントロピや情報量は,「何故これらの量が統計の広範囲の問題に共通に利用できる自然な量であるのか」と言う疑問に十分納得のゆく説明を阻み続けている様に見える.その原因の一つとして,統計学もこれらの量を主としてShannon流の情報理論に納まる量として導入し,しかも依然としてその影響が続いていることが考えられる.(P.207)
Clausiusクラウジウスのエントロピ,BoltzmannボルツマンのエントロピSB,GibbsギブスのエントロピSG(P.207)

この事についてはJaynes(1965)の指摘が役立つ。


古典力学に於るエントロピとの対応を持つSBあるいはSGに於て通常意味を持つのはそれら自身の値ではなく,異なる状態あるいは異なる分布に対するSBあるいはSGの差である.(引用者追記。ここでSBあるいはSGの差の量の肩に「*」を付す)その観点からするとSB*あるいはSG*はより実用的で広範囲な応用を持つ量であると言える.(5.14)からSB自身が適当な条件下でSB*に比例しているから,K‐L情報量が時には負のエントロピ(より正確にはf の に関する負のエントロピ)と呼ばれるのも納得できる.(P.227)
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2006年01月10日

杉田元宜 負エントロピーについて

杉田元宜 負エントロピーについて
科学 1952.Feb. Vol.22 No.2

杉田 元宣OR元宜 エントロピー
杉田 元宣OR元宜 負のエントロピー
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SelectedPapersOnEntropyStudies Vol.6,No.1,2000
説明:
Contents
Negative Entropy Sugita Motoyosi Page3
Explanatory Notes on Sugita Atsushi Tsuchida Page6
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渡部康一 エクセルギ関係の諸文献

渡部,康一
エクセルギ関係の諸文献 : N.Gasparovic, BWK, 1961-11,Bd.13,Nr.11,S.502〜509,図4
日本機械学会誌 65(521),893,19620600(ISSN 00214728) (日本機械学会)
BWKエクセルギ特集号の一編として,エクセルギ関係の諸文献を古くは1889年 M.Gouyの文献から現在まで総数119編を選んで文献リストを作っている.……

BWK Brennstoff- Warme- Kraft
ギュイ ストドラを知らずして、エクセルギーを語る無かれ。といいたいところだが、はたしてどれだけの人が彼らの論を読んだだろうか。私はまだ。

このドイツ語雑誌も だれか訳してくれ。
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2006年01月07日

エクセルギー 高橋秀俊

高橋,秀俊
エクセルギ-
応用物理 48(8),745-750,1979/08(応用物理学会 〔編〕/応用物理学会)
永久機関が不可能ということは,何か意味のあることをするには必ず何かを消費しなければならないということであろう.その消費される"何か”とは何か? というのが問題である. ある学者はそれは "負のエントロピー”であると述べた.それは十分に根拠のある考えなのではあるが,その場合に何を基準点にとったらよいかが示されていない点に、問題がある.この考え方では,負のエントロピーが実際に消費された(つまりエントロピーが不可逆的に発生した)後になって,負のエントロピーが何かをしたと”説明”できるだけである.言いかえれば,いまそこに,消費できるような負のエントロピーが存在するのかしないのか,存在すればどれだけあるのか,を的確に言いあらわすことができないのである.たとえば仮に,遠い未来に,エントロピーが可能な最大値に到達して,宇宙に”死”が訪れるという考えを認めたとしよう.そのとき,その最後の状態での全宇宙のエントロピーがどれだけか,を予測することは困難である.そんな空想めいた話は別としても,今ここに石炭の塊があるとして,その中に蓄えられている”負のエントロピー”を測ることはもちろん,定義することもできないのであるから,”生物は負のエントロピーを食って生きている”というような命題にはあまり説得力がないのである.そして,エクセルギーという量はまさにそのような疑問に答えるためにできたのだというのが,エクセルギーに対する私の解釈である.(P.745‐746)
ここで高橋秀俊は"負のネゲントロピー”に批判的である。定義できないし測れないとしている。それを可能ならしめるのが、佐藤正隆によるネゲントロピーの提案ではないかと思っている。
*Z.Rant:Forshung 23(1956) pp.36〜37.
また,小野 周:熱力学(岩波講座「基礎工学」)pp.184〜187.
   高橋秀俊:日本機械学会誌(1965)pp.2〜4.
にも同じ概念があらわれている.(P.746)
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価値尺度としてのエネルギー ‐エクセルギーの概念について‐ (高橋 秀俊)

高橋,秀俊
価値尺度としてのエネルギー : エクセルギーの概念について
日本物理學會誌 33(2),103-105,19780205(ISSN 00290181) (社団法人日本物理学会)
 私にとって不審に思われるのは,エクセルギーのような重要な,しかも初歩的な概念が,在来の熱力学の教科書に書かれていない点である.もっとも[工業熱力学」の教科書,たとえば谷下市松編,大学演習「工業熱力学」(裳華房,1959年初版)には,「最大仕事」の名で書かれているので,その方面のエンジニアは知っていたのかもしれない.恐らく,「環境」という客観性を欠く要素の入ったエクセルギーの定義が物理学者になじまなかったのであろう.しかし,熱力学はそもそもエネルギーの有効利用への要求から生まれた学問であることを考えると,やはり考えさせられる問題である.
 しかし,今からでも遅くは無い.……(P.105)
「環境」という客観性を欠く要素の入ったエクセルギーの定義
とある。
つまりは、エクセルギーの定義が堅固でないとの認識を、高橋秀俊氏自身が抱いていたということであろう。このエクセルギーにある定義の据わりの悪さが、同類の”負のエントロピー(ネゲントロピー)”にもある(エクセルギー 高橋秀俊)のは むしろ当然といえよう。この定義の据わりの悪さを解消する定義の明瞭化の切欠が佐藤正隆のネゲントロピーの提案Sato’s Negentropyのように思う。

ところで、
 私にとって不審に思われるのは,……
…その方面のエンジニアは知っていたのかも…
…客観性を欠く要素の入ったエクセルギーの定義が物理学者になじまなかった…
…熱力学はそもそもエネルギーの有効利用への要求から生まれた学問である…
とあるが、
……やはり考えさせられる問題
である。学問の壁の存在であろう。どこを切り取ってもミクロコスモス、金太郎飴、神々はどのような微細な細部にも宿っているものなのであろう。”バカ”にあるものはやはり”学”にも あるのではないか。新奇現象を目の当りにしたときの人々のスタンスが気になる。気になるといえば、ニセ科学の会 スラッシュドット ジャパン | 日本物理学会「ニセ科学」シンポジウムの呼びかけ文における”常識”の使い方がある。科学が”常識”の与党に組してていいのか、と書いてからページ検索したが ”常識”は消してあるような気がする、
「……」はきちんとした定義すらされておらず、我々物理学者にとってはナンセンスな言 説にすぎない。「ニセ科学」シンポジウム
ナンセンスに書き換えたのかな、気のせいかな。ナンセンス←→センス、ルナ←→セイン。逆か裏か対偶か。非常識←→常識(コモンセンス)。書き換えても、言っていることは大差ないようにも思えるのだが。カナ横文字にして対偶をとってとか。なんて一々あげつらってると、私自身の発言もなんて言われてるか わからん。口くち チャック。

ついでに
 しかし,今からでも遅くは無い.……(P.105)
とあるが、ブラックの小型蒸気機関模型のメンテを引き受けた縁から先駆けることとなるワットによる蒸気機関の改良、といった具合に、新奇な現象の場合、現場の方が実験室よりも現象とのファーストコンタクトのチャンス、現象発現との遭遇機会は(分布は遍在・希薄であるが試行数・現場数が多いので)確率が高い、現象把握に有利なポジショニングである。技術の現場・ユーザの現場の方が、新理論の認識では先駆する可能性があるということである。実験室での意図的な現象の発現が、必ずしも、最先端のアイディア発見には繋がらず、現場のほうが早い場合がある。
 そうして、世界中で、自分だけが因果関係を知っている状況ができたとしたなら、他の人にとっては不確実性・偶然でも、自分にとっては必然の因果である。
  • 大きな賭けのチャンスである、金儲けのチャンスである。何もわざわざ、他人に教えることは あるまい。商売の常道であろう。
  • あるいは逆に予想されるインパクトが小さ過ぎ、その新発見因果関係を公表したところで 大した得にはならないと判断したときには、公表や周知に労力をあえて割こうとはしないだろう(=これぞAIC?)。あえて疲れる∧面白くないことはしない。
こうして新因果関係事実は 表に出ることなく、潜伏することとなる。

 いわゆる”ミネルバのフクロウ”の飛び立つころには既に大勢は決しており あとは事態の明瞭化・明文化・歴史化マニュアル化を残すのみ、それが”ミネルバふくろうケース”ではなかったのか。理論理屈が遅いのは むしろ常道である、卑屈になることではない。
 インターネットの場で発現する現象にも、そういったこと「事態の、実験室に先立つ発現」が見られるような気もする。
コンピュータネットワークの世界では、人間界で行われている試行錯誤を1000倍くらい早い時間で社会システムのシミュレーションをしているとも言えるのですが、その結果が日本の伝統システムと似通っているのは面白いですね。

posted by raycy at 23:03| Comment(0) | TrackBack(1) | 解説覚書など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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