2010年07月03日

死ぬのがこわくなくなる薬 井上ひさし

死ぬのがこわくなくなる薬@amazon―エッセイ 井上ひさし 中央公論社, 1993



ワープロは日本語を変えたか

「名人」とくれば「偏屈」と受けて対にするのか世の仕来りであるが、金ペン堂主人は明朗、かつ親切、変人じみたところは兎の毛の先の塵ほどもない。ただ、客に試し書きをさせないところが常と変わっているかもしれない。


「あなたは何をしたいんですか?」

内心むっとしたが、いま思えばこの編集者は偉かった。じつはこのとき彼は筆記用具と活字との関係の本質をみごとに言い当てていたのである。

たとえばワープロを使っておいでの安部公房さんは言う。
ワープロも万年筆も、結局は書く手段にすぎない。そしてその手段は、最後の表現手段である「活字」に呑み込まれてしまう(「ASAHIパソコン」1991年1月1・15日号)

問題は文体である。
読者が読むのは書かれている文体であり、/そして文体とは結局筆者の脳(思考)の構造に他ならない(安部公房、前掲号)



悪い噂が十以上……

だが、そのころ、ワープロに関してずいぶん悪い噂が飛び交っていた。

ところが、一昨年(1990年)の末、戯曲を書いている最中、右手に微かに痙攣が現れた。

字が書けなくなると食いはぐれてしまうという恐怖がわたしをワープロの前へ連れ出したのである。


ワープロ学院に入学

例の、それぞれの指に担当するキーを覚えさせておいてキーボードを見ずに入力する究極の打法「ブラインドタッチ」にしても、いい教則本と使う側の根気(一日に一時間ずつ、一月もやれば充分)があれば容易に身につく。

 ところで、かな入力かローマ字入力かは大いに議論の分かれるところだが、迷わずにかな入力を選んだ。理由は二つある。第一に、小説や戯曲をローマ字で打ち出す度胸がなかった。第二に、若い頃に通つていたタイプライター学校の先生が「アルファベットキ―の配列は非常に不合理です」と言っていたのを思い出したからである。しかしその不合理には正当な理由がある、と先生はつづけた。タイプライタ―のキーを打つ。するとキ―はア―ム(バ―ともいう)を動かす。アームの先には活字が付いていて、その活字がインクリボン越しに紙へ叩きつけられる。こうして紙に字が移る。ところがタイピングの腕が上がるにつれてアームの往復が早く、烈しくなる。するとアームは途中でもつれて絡み合い、そのつど手を止めて、アームを解(ほど)いてやらなくてはならなくなる。そうなるとかえって能率が落ちる。
「」


苦渋が苦汁、原稿は原鉱に
 ワープロは電子機器である。アームもバーもなく、キーに触っただけで文字が画面に現れる。アームがもつれて絡み合うというようなことはもうないのに、鍵盤のアルファベット文字の配列だけはそっくりタイプライターから引き継いでしまった。電子機器になったのを機会に、「よく使うキーはよく動く指で打とう」ということにはならなかったらしい。そこでローマ字入力で左の小指や薬指を酷使するのはもう願い下げ、あんな不合理な配列に今度も義理立てすることはあるまいと考えたわけだ。


posted by raycy at 01:20| Comment(0) | TrackBack(9) | 本メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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