2008年07月01日

蜂の寓話 自由主義経済の根底にあるもの (上田辰之助著作集) 上田 辰之助

蜂の寓話@amazon 自由主義経済の根底にあるもの (上田辰之助著作集) 上田 辰之助 (- - 1987/8)
小序
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 『蜂の寓話』は経済学史においても特異の一文献たるを失わない。アダム・スミスの経済学を深く理解しようと思う人はぜひ研究されなければならない重要資料である。私が『寓話』の邦訳を志し、それをわが学界に少しでも接近し易いものとしようと試みたのはそのために外ならない。この点私の微力が幾分お役に立ち得れば本望である。また巻尾に原著詩篇の写真版を添えたのも同じ趣旨に出ずるものであること申すまでもない。
 しかし本書の主として目指す読者は社会思想に関心を持つ一般教養人である。なかんずく、文化に対して情熱を抱く純真な青年学徒である。そういう人々に渋滞なく、欲を言えば楽しく読んで貰え、それでいて余り調子の低くない読物を提供するのが私の念願である。それ故に私は本書の執筆にあたっては絶えず学生諸君の顔を心眼で見詰めながら稿を進めた。いわば、諸君と共に、裃を脱いで自由にマンドヴィルを語るといった気持ちで問題を前後左右から考察した。表現をできる限り砕けたものとしたことや時に、否甚だしばしば、脱線も敢えて辞せずという思切った「非学問的」な叙述形式をとったことは、その意味で、おゆる宥しをねがわねばならない。所詮マンドヴィルはペダンティックに取り扱い得ない、また取り扱ってはならない著者である。(p.iiv-iv)
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グローバリゼーションを読む 姜 尚中、ボブ ジェソップ、エルマー アルトファーター、 ヨアヒム ヒルシュ

グローバリゼーションを読むグローバリゼーションを読む@amazon 姜 尚中、ボブ ジェソップ、エルマー アルトファーター、 ヨアヒム ヒルシュ (単行本(ソフトカバー) - 1999/12)
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グローバリゼーションを擁護する ジャグディシュ・バグワティ、鈴木主税、 桃井緑美子

グローバリゼーションを擁護するグローバリゼーションを擁護する@amazon ジャグディシュ・バグワティ、鈴木 主税、 桃井 緑美子 (単行本 - 2005/4/21)
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消えるヒッチハイカー―都市の想像力のアメリカ ジャン・ハロルド ブルンヴァン、大月隆寛、重信幸彦、 菅谷裕子

消えるヒッチハイカー@amazon―都市の想像力のアメリカ ジャン・ハロルド ブルンヴァン、大月 隆寛、重信 幸彦、 菅谷 裕子 (単行本 - 1988/10)
はじめに

 本書は、現代のアメリカ社会で広く語られ、流布されているさまざまな話について書かれたものだ。多くの人はこれらの話を「実際にあったこと」として聞いている。・・・これらをわたしたちの同時代のフォークロアの代表的なものであるとみなす・・・。・・・など、これら誰もがいかにもありそうだと思える話を「都市で信じられる話」、あるいはより簡潔に「都市伝説と呼んでいる。
訳注1――
訳注2――(P.15)

 ・・・。しかし都市伝説は、最近のできごと(あるいはそうでなくても人々のよく知っているできごと)に、批判的な、また超自然的なひねりをきかせた、まさに現実的な話なのだ。これら都市伝説は、白人アングロサクソン文化の不可欠の要素であり、現代社会の最も洗練された「普通の人々」――つまり若者、都市生活者、高等教育を受けた人々――によって語られ、信じられている。この都市伝説の語り手たちは、それぞれの話が本当のことであるかについて、自分の手で確かめようとすることはない。彼らは、確かな証拠を握っているごく一部の人間に聞いたとか、あるいは、マスメディアによって流される情報で知ったなどと言いながら、それらの話を語ってゆく。マスメディアがうわさやゴシップをもっともらしく扱う時、同時にそのマスメディア自体がそれら都市伝説を広め、権威づけることに手を貸しているのだ。とは言うものの、本書において示されるように、これら都市伝説はあくまでフォークロアなのであって、事実としての歴史がそのまま語られているというわけではない
訳注3――(P.14-15)

 民俗学の目的とは、オーラル・トラディションズ口述の伝承の正体を暴露することではない。
訳注2――これは今回、”oral tradition”につけた訳語だ。率直な訳にすれば「口頭伝承」か。しかしそれを、「口承文芸」として囲い込める領域に重ねてしまうことには慎重でなければなるまい。ここで問題となるのは、人と人との口伝えの回路の中で構造化され集積されるような「経験」のことだ。それはまた、しばしば日本で「伝承」という言葉の前提とされてしまう、ある種の「歴史的深さ」ともズレてしまうものだということを意識しておきたい。(P.16)

 ・・・。また、多くの都市伝説は一般向けの印刷物や、映画、テレビ番組のプロットとして利用されてもきているが、これらに関する徹底的、体系的考察もまた、本書の期するところではないことをおことわりしておきたい(それらについては、わずかながら注の中で)。

1 古い伝説から新しい伝説へ

 わたしたちは自分たちの言語の文法について意識しないように自分たちのフォークロアについても意識していない。言葉と習慣とによって人から人へと日常的に伝えられる「伝承つまり、知恵、知識、誰もが受け入れる行動様式といったものに従うとき、わたしたちは、そのわたしたち自身のフォークロアのかたちや内容については気にしないものだ。それどころか、わたしたちは他人が話す情報にはただ耳をかたむけるだけで、右から左へ次の聞き手へとわたしてゆく。こうした無意識のうちに伝えられてゆく口述の回路の中で、一つのはっきりとした話の筋を獲得してゆく情報のことを語りのフォークロアと呼ぶ。そして、これは本当のことだと主張されるような話を「伝説と呼ぶ。
訳注1――
訳注2――・・・・・・。しかし本書で扱っているような話は、日本では伝説として分類されることはなく、とりあえず、「世間話」という口承文芸の雑然としたオモチャ箱的ジャンルに分類されることになる。(P.21)

 広く普及した読み書きの能力や、素早いマスコミュニケーション、そして目まぐるしい移動が可能となったわたしたちの時代に、伝説、それも都市伝説が作られ続けることなどないと思われるかもしれない。開拓者であったわたしたちの祖先は、状況の変化や待ち受ける危険についての情報を伝えるためにこのような口述の伝承に大いに頼らなくてはならなかっただろう。しかし、もはやわたしたちは、事実をゆがめるようなただの「口述の報告は、全く必要としない。だが、にも関わらず、少し考えてみるだけでも、わたしたちは異様で、魅力的で、それでいて真偽が確認されることのないようなうわさやちょっとした話をたくさん思い出すことができる。そして、これらの話はよくわたしたちの耳に入ってくる。
訳注3――(P.21)


下水溝のワニ」(P.140)
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