2007年06月28日

如月小春は広場だった―六〇人が語る如月小春

如月小春は広場だった@amazon―六〇人が語る如月小春 『如月小春は広場だった』編集委員会 (単行本 - 2001/12)
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特集 空の言語学--言語に実体はあるか 月刊言語

特集 空の言語学--言語に実体はあるか
言語 34(4) (通号 405),22〜81,2005/4(ISSN 02871696) (大修館書店)
チャレンジコーナー 定延利之(P.104)
 終助詞は、「ぞ」「ぜ」「わ」…などと、メンバーをすべて挙げつくすことができる。新しいメンバー(たとえば「にょ」)をその場でいきなり作り出せると言うものではない(つまり「閉じている」)。同じことが間投助詞にも言える。終助詞や間投助詞と違って、「ちょろ」「ひょーん」「ぷう」に類することばは気分しだいで新しいものがいきなり作れ、メンバーをすべて挙げつくすことができない。(つまり「開いている」)。この点で感動詞やオノマトペに近いと言える。(P.107)
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戦後日本の思想 久野 収、鶴見 俊輔、 藤田 省三

戦後日本の思想 久野 収@amazon、鶴見 俊輔、 藤田 省三 (再版1966年版 、初版1959)
日本の保守主義 「心」グループ《報告》久野収
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あまり闘い、闘いというのは、大人のいうことではないと考える。こういう立場は、私は自由主義ではないと思う。だから戦前においても、同年代のミリタント・リベラルは、このグループより少し左のところにいた。たとえば矢内原忠雄、河合栄治郎、正木ひろし、岩波茂雄、そのた。後者はやはり狂信に対してミリタントです。自由主義者と保守主義者とのケジメは、基本的人権を論理的に先国家的と考えるか、後国家的と考えるかにあると思う。(P.74)

社会科学者の思想 大塚久雄・清水幾太郎・丸山真男《報告》藤田省三
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 いわゆる学派の問題
 そのほかにいろいろな特徴がありますが、省略してここで挙げただけのことと関係する、「近代主義」学者の中の一つの傾向を取り出して見ると、科学の技術主義を見つけることができる。科学を分離独立させた結果、一階と無関係な二階だけの家を建てようとする流れが派生する。大塚、丸山とずいぶん異なったものができている。たとえば大河内一男の場合は、丸山らより前から同じようにマックス・ウェーバーから学びながら、科学の効用は目的を決めたり、評価することではないんだ、与えられた目的に適合的な手段を提示することだ、という点を徹底させる。それは全くその通りだと思う。技術としての科学を確立すること、それは専門家として必要な態度だと思う。しかしこれだけだと学者が支配身分として社会の中で高いステータスをもっている日本の場合、その日本の習慣に乗っかって生きていく道も開かれてくるわけです。生活のうえでの価値判断停止と学問技術上での没価値性との重なり合いの可能性が、大河内一男の哲学から出てこないとはいえない。日本のマルクス主義とは逆の一枚化ですね。こうした傾向は、政治学のほうでもあらわれているので、現在のように国家の制度化が進んで来て、アカデミズムが再建され、事務職員、助手、助教授、教授・・・・・総長というステータスの機構がスムースに回転するようになると、ステータスの維持・上昇に対する関心が行動を決める軸になってくる。行動決定の内面性を喪失する。そこで科学は身分の階段を上っていくきっかけに過ぎない。科学技術主義が拡大再生産されてくる。それが、大体現在の専門学者の中に相当一般的な傾向としてあるんではないか。(P.158)
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