2007年06月27日

食悦奇譚―東西味の五千年 塚田孝雄

食悦奇譚@amazon―東西味の五千年 塚田 孝雄 (単行本 - 1995/3)
目次
いざ赴かん食道楽(ガストロノミア)のユートピアへ
帝王の宴と聖者の食卓
(6)釈迦は菜食主義者にあらず
作法と禁忌と食養と
(7)ソクラテスはやせていたか?
やむなき境遇のもとで
極限下でつなぐ命の糧
愛飲酩酊の果てに
グルメたちの歓び
食悦もたらす陰の主役
愛好された糧食
飲みもの万華境
食品・調味料アラカルト
藷と野菜と果実と菓子と
(6)しいたけが取り持った道元の「悟り」
ガストロ殿下の話―天上天下唯腹独尊

 釈迦は菜食主義者にあらず(P.23)
 釈迦は貴賎の別なく、出された料理は何でも受けた。だが、紀元前一世紀ごろから大乗仏教が栄えると次第に事情は変わり、菜食主義が台頭してくる。ヒンズー教の影響もあったらしい。「大般涅槃経」のような肉食を罪悪視する経典さえ編まれた。こうした傾向は中国に伝えられてさらに加速した。中国の仏教修行僧は、禅家などにみられるように、深山幽谷に居を構え、農耕で自給自足の生活を営んだ。だから、インドのように肉を容易に入手できる環境ではなかった。こうして寺院の食事は精進料理一辺倒になってしまったのである。
 大陸経由で伝わった仏教をそのまま受容したわが国に、選択の余地は初めからなかった。ただ、肉食にもわずかになじんでいた”民族の記憶”は、精進料理の名称に反映された。ナスの鴫焼き、こんにゃくの狸汁、豆腐の雁もどきetc・・・・・・。僧侶達は、味気ない精進料理にイメージという味付けを施し、楽しんでいたのだろうか。(P.25-26)

 ソクラテスはやせていたか?(P.52)

 しいたけが取り持った道元の「悟り」
 ・・・道元が悟りを開くヒントを得たのもシイタケが取り持つ縁だった。留学する彼の乗った船が宋の港に着いた時、積んでいたシイタケを買出しに来ていた阿育王山の老典座(食事係)に出会い、問答する中で悟りへのひらめきが道元の心をよぎったのである。(P.321)
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老子と現代物理学の対話―21世紀の哲学を求めて 長谷川晃

老子と現代物理学の対話@amazon―21世紀の哲学を求めて 長谷川晃 (- - 1988/5)
京都に帰るたびに柴野の小堀南嶺老師を訪ねる。(P.9)

小堀「日本人が一人ひとり意見をもたないというのは、『私』のない面の悪い例でしょうね。西欧文化の大きな特徴は自分の存在でしょう。今の言葉で言えばアイデンティティですね。
 これに対し日本も含めた東洋では、老荘とか仏教を背景にした文化の一つの特徴として自己というものをどう完成していってある頂点まで昇ったときに自己はすでにない。老荘では聖人無私と言う。ちょうど天地の私無きがごとく君子は無私でなければならないと言います。
 これをじこのためにするのはパワーの理論、覇道ですね。戦国の武士などは覇王です。仏教では無我です。自己を深めて深めて、禅宗で言ったら本当の自己という塊がなくなっていくんです。私をなくしていくと言うことが自己の完成の最も優れた姿であります。自己を完成したところには自我がなくて、無限と言うか、インフィニット(infinite)と言う言葉がそこにあてはまると思うんです。だからファイナイトライフ(finite life 有限の命)というものがインフィニットライフ(infinite life 無限の命)にぴたっと合致するところにファイナイトライフ(finite life)の完成があるんだろうと思うんです。
 結局行く道は自己をなくしていき、なくした自分をいかに社会や人のために役に立たせるかを帰り道の仕事にする。行く道だけでは死にに行くようなもんですから、世間に対して意味はない。自殺しても同じようなものでしょう。」(P.163)
小堀「・・・個人の持つ限界を知ることです。・・・自分の中に穴が開いてないといけない、・・・」(P.166)
小堀「そりゃあ民主主義の形態は保っていくほうがいい。しかし個の質の向上が伴わなければ政治形態が崩壊するでしょう。政治形態としては民主主義の方がいいのには違いないが、このままでいくと情報の過剰と科学技術の進歩の速さが先行して、基本的な個の質の向上が伴わないように思いますわ」(P.166-167)

 ・・・「場」と「空」とを対応させると、現代物理学の基本的な考えと仏教の考えがぴたりと一致することに気付く。
 「己を無にする」 無にすべき自己の発見とその確立がなければ、付和雷同の無になってしまう。
 十九世紀までの物理学が理解されて初めて、それを否定する相対性理論の意味が味わえる
 ・・・自覚された自己を無にすることを「積極的な無」と名づけたい。これに対し自覚のない自己をただ無にするのは「消極的な無」といえる。
 ・・・日本人の無が・・・消極的な無の場合、日本の文化は主体性が残らないものになってします。(P.222)
 私は太陽の光を「積極的な無」、何も書いてない白紙を「消極的な無」にたとえたい。(P.223)
 二十一世紀の日本は、ただの白紙といった「消極的な無」から、自らあらゆる色を放つことによる「積極的な無」を基本とする社会でありたいものだ。(P.224)
posted by raycy at 00:27| Comment(0) | TrackBack(3) | 本メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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