2007年06月11日

日本のX 宇野俊郎

日本のX 宇野俊郎著 -- 現代社, 1991.3 , 391p. -- (現代社白鳳選書 ; 102)
 なぜそんなにまで自国の文化紹介に力をいれるのか? それは、およそ 国の値うち というものは、国の大小、強弱の差はあれ、結局はその 国民が創りだした独自の文化的価値 によって測られる、ということが、決して外交的な辞令ではなしに、お互いの通念となっているからです。(P.6)
 いう迄もなく西洋では 一つの「ライフ」でよばれるものが、こちらでは自然にわかれ、生命と生活、つまり「イノチとクラシ」の二つになる。(P.9)
 ではこうして日本人が、しらずしらず、イノチとクラシをわけるのは、一体なぜか?(P.10)
 WAの原理(輪・和、オヤとペアレンツ、一即多・多即一、「大和」の原理)(P.249)

(中略)、しかしそれは違う。・・・・・・
 とハッキリ言える為には、日本人がそれに向かってアリガトウという思念を発する、その「最も有り難いモノ」とは何か? それが、宗教の「神」や「仏」の観念とは違う生命の根源(カミ)の感受である、というなら、そして又、その感受(ココロ)が、アリガトウ・モッタイナイ・オカゲサマデ・バチ等の(西欧語には無い)日本語を発生し、日本人の生命観・人間観・宇宙観・人生観・文明観をもたせ、西欧人の「生活(クラシ)の文化」とは違う、日本人の「命(イノチ)の文化」をつくり上げて来た、とするなら、その根源の「生命の感受」(生命の物理)生命(イノチ)の物理(サトリ)が、一体どのようなものであったか? それらの、(他民族の言語には無い)日本語をつくり出した、日本民族の祖先の人々の思想(サトリ)をハッキリとつき止めなければならない。なぜなら、その思念が、シュメールやインダスの文明よりも古い上古代から、現代の我々に至るまで伝えられて、(誰も、ことさら意識するまでもない程深くミについて、しかしその為に、聞かれてもすぐに答えられぬ「日本のX」になってしまったのだが、)まちがいなく、それが、日本人の思想(ココロ)の芯(シン)になっていたからである。(P.355-356、後書、宇野多美恵)
posted by raycy at 11:41| Comment(0) | TrackBack(7) | 本メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。