2007年06月30日

エントロピー学会誌「えんとろぴい」CD版

エントロピー学会誌「えんとろぴぃ」CD版 学会設立20周年の記念事業
1984年6月発行の第1号から2005年3月発行の第54号までの、すべての論文2620ページ分をPDF化
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2007年06月29日

経済学の歴史―市場経済を読み解く 中村 達也、新村 聡、八木 紀一郎、 井上 義朗

経済学の歴史―市場経済を読み解く 中村 達也、新村 聡、八木 紀一郎、 井上 義朗 (単行本 - 2001/12)
八木 紀一郎
 経済学の蔑称としては、T.カーライルの、金銭欲と貧困についてしか語らない「憂鬱な科学」(ディズマル・サイエンス)が有名だが、それに対抗しうる美称として筆者が思い浮かべるのは、「世俗の哲学」(ワールドリィ・フィロソフィー)である。これをつくったのは、R.L.ハイルブローナーというアメリカの経済学史家である。(P.9、序章 八木 紀一郎)
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文学論 夏目漱石

漱石全集〈第18巻〉文学論 (1957年) 夏目漱石@amazon
第三篇 第二章 文芸上の真と科学上の真(P.196)
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文藝春秋 2004年5月号

文藝春秋 2004年5月号
特別企画 名著入門
白川 静 「論語」を読み孔子と対話する 
藤原正彦 新渡戸稲造「武士道」は魂の書
磯田道史 内村鑑三「代表的日本人」を貫く精神 
池内 恵 岡倉天心「茶の本」と東洋のかたち 
中野 翠 樋口一葉「たけくらべ」が描く世間 
茂木健一郎 宮本武蔵「五輪書」は生命の跳躍 
福田和也 福沢諭吉「福翁自伝」は痛快無比 

●オヤジとおふくろ

私の東大論 立花隆(57)
「太った豚」による矢内原忠雄追放劇
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道元断章―『正法眼蔵』と現代 中野孝次

道元断章@amazon―『正法眼蔵』と現代 中野 孝次 (単行本 - 2000/6)
「生也全機現、死也全機現」(P.13)

 道元が「全機」の巻でいっていることは、たんに生死のことだけではないこともわかった。生死の相を見極めることがそのまま「諸仏の大道」を究めつくすことにひとしいのである。この全宇宙にあるものが、個々それぞれの相にありながらそれにとどまらずに透脱(透きとおっている)し、すべてのものの存在と働き(機関)が、前後際断された「今ココニ」の絶対的今としてまったき姿で働き、行なわれている。個々の存在が、それでありながらそれを超えるのは、生・死は、全宇宙的生命のまったき働きとしての生の現成だからである。生は生で絶対である、死は死で絶対である。そこに前後も、因果関係も、あとさきもない。(P.13-14)

全機関現成(P.14)

圜悟克勤(P.19)
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2007年06月28日

如月小春は広場だった―六〇人が語る如月小春

如月小春は広場だった@amazon―六〇人が語る如月小春 『如月小春は広場だった』編集委員会 (単行本 - 2001/12)
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特集 空の言語学--言語に実体はあるか 月刊言語

特集 空の言語学--言語に実体はあるか
言語 34(4) (通号 405),22〜81,2005/4(ISSN 02871696) (大修館書店)
チャレンジコーナー 定延利之(P.104)
 終助詞は、「ぞ」「ぜ」「わ」…などと、メンバーをすべて挙げつくすことができる。新しいメンバー(たとえば「にょ」)をその場でいきなり作り出せると言うものではない(つまり「閉じている」)。同じことが間投助詞にも言える。終助詞や間投助詞と違って、「ちょろ」「ひょーん」「ぷう」に類することばは気分しだいで新しいものがいきなり作れ、メンバーをすべて挙げつくすことができない。(つまり「開いている」)。この点で感動詞やオノマトペに近いと言える。(P.107)
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戦後日本の思想 久野 収、鶴見 俊輔、 藤田 省三

戦後日本の思想 久野 収@amazon、鶴見 俊輔、 藤田 省三 (再版1966年版 、初版1959)
日本の保守主義 「心」グループ《報告》久野収
 ・・・・・・
あまり闘い、闘いというのは、大人のいうことではないと考える。こういう立場は、私は自由主義ではないと思う。だから戦前においても、同年代のミリタント・リベラルは、このグループより少し左のところにいた。たとえば矢内原忠雄、河合栄治郎、正木ひろし、岩波茂雄、そのた。後者はやはり狂信に対してミリタントです。自由主義者と保守主義者とのケジメは、基本的人権を論理的に先国家的と考えるか、後国家的と考えるかにあると思う。(P.74)

社会科学者の思想 大塚久雄・清水幾太郎・丸山真男《報告》藤田省三
 ・・・・・・
 いわゆる学派の問題
 そのほかにいろいろな特徴がありますが、省略してここで挙げただけのことと関係する、「近代主義」学者の中の一つの傾向を取り出して見ると、科学の技術主義を見つけることができる。科学を分離独立させた結果、一階と無関係な二階だけの家を建てようとする流れが派生する。大塚、丸山とずいぶん異なったものができている。たとえば大河内一男の場合は、丸山らより前から同じようにマックス・ウェーバーから学びながら、科学の効用は目的を決めたり、評価することではないんだ、与えられた目的に適合的な手段を提示することだ、という点を徹底させる。それは全くその通りだと思う。技術としての科学を確立すること、それは専門家として必要な態度だと思う。しかしこれだけだと学者が支配身分として社会の中で高いステータスをもっている日本の場合、その日本の習慣に乗っかって生きていく道も開かれてくるわけです。生活のうえでの価値判断停止と学問技術上での没価値性との重なり合いの可能性が、大河内一男の哲学から出てこないとはいえない。日本のマルクス主義とは逆の一枚化ですね。こうした傾向は、政治学のほうでもあらわれているので、現在のように国家の制度化が進んで来て、アカデミズムが再建され、事務職員、助手、助教授、教授・・・・・総長というステータスの機構がスムースに回転するようになると、ステータスの維持・上昇に対する関心が行動を決める軸になってくる。行動決定の内面性を喪失する。そこで科学は身分の階段を上っていくきっかけに過ぎない。科学技術主義が拡大再生産されてくる。それが、大体現在の専門学者の中に相当一般的な傾向としてあるんではないか。(P.158)
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2007年06月27日

食悦奇譚―東西味の五千年 塚田孝雄

食悦奇譚@amazon―東西味の五千年 塚田 孝雄 (単行本 - 1995/3)
目次
いざ赴かん食道楽(ガストロノミア)のユートピアへ
帝王の宴と聖者の食卓
(6)釈迦は菜食主義者にあらず
作法と禁忌と食養と
(7)ソクラテスはやせていたか?
やむなき境遇のもとで
極限下でつなぐ命の糧
愛飲酩酊の果てに
グルメたちの歓び
食悦もたらす陰の主役
愛好された糧食
飲みもの万華境
食品・調味料アラカルト
藷と野菜と果実と菓子と
(6)しいたけが取り持った道元の「悟り」
ガストロ殿下の話―天上天下唯腹独尊

 釈迦は菜食主義者にあらず(P.23)
 釈迦は貴賎の別なく、出された料理は何でも受けた。だが、紀元前一世紀ごろから大乗仏教が栄えると次第に事情は変わり、菜食主義が台頭してくる。ヒンズー教の影響もあったらしい。「大般涅槃経」のような肉食を罪悪視する経典さえ編まれた。こうした傾向は中国に伝えられてさらに加速した。中国の仏教修行僧は、禅家などにみられるように、深山幽谷に居を構え、農耕で自給自足の生活を営んだ。だから、インドのように肉を容易に入手できる環境ではなかった。こうして寺院の食事は精進料理一辺倒になってしまったのである。
 大陸経由で伝わった仏教をそのまま受容したわが国に、選択の余地は初めからなかった。ただ、肉食にもわずかになじんでいた”民族の記憶”は、精進料理の名称に反映された。ナスの鴫焼き、こんにゃくの狸汁、豆腐の雁もどきetc・・・・・・。僧侶達は、味気ない精進料理にイメージという味付けを施し、楽しんでいたのだろうか。(P.25-26)

 ソクラテスはやせていたか?(P.52)

 しいたけが取り持った道元の「悟り」
 ・・・道元が悟りを開くヒントを得たのもシイタケが取り持つ縁だった。留学する彼の乗った船が宋の港に着いた時、積んでいたシイタケを買出しに来ていた阿育王山の老典座(食事係)に出会い、問答する中で悟りへのひらめきが道元の心をよぎったのである。(P.321)
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老子と現代物理学の対話―21世紀の哲学を求めて 長谷川晃

老子と現代物理学の対話@amazon―21世紀の哲学を求めて 長谷川晃 (- - 1988/5)
京都に帰るたびに柴野の小堀南嶺老師を訪ねる。(P.9)

小堀「日本人が一人ひとり意見をもたないというのは、『私』のない面の悪い例でしょうね。西欧文化の大きな特徴は自分の存在でしょう。今の言葉で言えばアイデンティティですね。
 これに対し日本も含めた東洋では、老荘とか仏教を背景にした文化の一つの特徴として自己というものをどう完成していってある頂点まで昇ったときに自己はすでにない。老荘では聖人無私と言う。ちょうど天地の私無きがごとく君子は無私でなければならないと言います。
 これをじこのためにするのはパワーの理論、覇道ですね。戦国の武士などは覇王です。仏教では無我です。自己を深めて深めて、禅宗で言ったら本当の自己という塊がなくなっていくんです。私をなくしていくと言うことが自己の完成の最も優れた姿であります。自己を完成したところには自我がなくて、無限と言うか、インフィニット(infinite)と言う言葉がそこにあてはまると思うんです。だからファイナイトライフ(finite life 有限の命)というものがインフィニットライフ(infinite life 無限の命)にぴたっと合致するところにファイナイトライフ(finite life)の完成があるんだろうと思うんです。
 結局行く道は自己をなくしていき、なくした自分をいかに社会や人のために役に立たせるかを帰り道の仕事にする。行く道だけでは死にに行くようなもんですから、世間に対して意味はない。自殺しても同じようなものでしょう。」(P.163)
小堀「・・・個人の持つ限界を知ることです。・・・自分の中に穴が開いてないといけない、・・・」(P.166)
小堀「そりゃあ民主主義の形態は保っていくほうがいい。しかし個の質の向上が伴わなければ政治形態が崩壊するでしょう。政治形態としては民主主義の方がいいのには違いないが、このままでいくと情報の過剰と科学技術の進歩の速さが先行して、基本的な個の質の向上が伴わないように思いますわ」(P.166-167)

 ・・・「場」と「空」とを対応させると、現代物理学の基本的な考えと仏教の考えがぴたりと一致することに気付く。
 「己を無にする」 無にすべき自己の発見とその確立がなければ、付和雷同の無になってしまう。
 十九世紀までの物理学が理解されて初めて、それを否定する相対性理論の意味が味わえる
 ・・・自覚された自己を無にすることを「積極的な無」と名づけたい。これに対し自覚のない自己をただ無にするのは「消極的な無」といえる。
 ・・・日本人の無が・・・消極的な無の場合、日本の文化は主体性が残らないものになってします。(P.222)
 私は太陽の光を「積極的な無」、何も書いてない白紙を「消極的な無」にたとえたい。(P.223)
 二十一世紀の日本は、ただの白紙といった「消極的な無」から、自らあらゆる色を放つことによる「積極的な無」を基本とする社会でありたいものだ。(P.224)
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2007年06月25日

図説基礎工学対話―どのようにして量は捉えられたか その歴史と論理と人物と 高橋利衛

図説基礎工学対話―どのようにして量は捉えられたか その歴史と論理と人物と 高橋利衛@amazon (- - 1979/6)
工学を古典物理から自立させ、現代工学の礎石を据えた碩学たちの列伝(P.?C)

工学を自立させた人たち(P.371-)
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基礎工学セミナー―量の理論/現象の論理と法則の構造をめぐる討論 高橋利衛

基礎工学セミナー―量の理論/現象の論理と法則の構造をめぐる討論 高橋利衛@amazon (- - 1974)
<量の理論>
圏論 を 原数学として、工学的認識論・存在論の水準でとらえ返そうというのが、筆者の拠って立つ地平なのである。(P.C)

 山村 “生物体は「負のエントロピー」を食べて生きている”とかなんとか、シュレディンガーが書いていたが、なぁんだ回路だって負のエントロピーを適当に食わなくっちゃ、定常状態すら保てないんじゃないか!(P.373)
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「アメリカ式」考え方のヒント!―在米物理学者の見た世界 長谷川 晃

「アメリカ式」考え方のヒント!@amazon―在米物理学者の見た世界 長谷川 晃 (単行本 - 1985/9)
 安定性を追及することは、社会主義化を追及することに繋がるということである。すなわち安定性を追求すると言うことは、社会主義化を追求することに繋がるということである。すなわち安定性を求めて集まった人間の集合体に対する報酬は、その人の生活費がそれを決める基準となる。同じ日本社会の中で、安定性より企業性を追求する組織で働く人間との収入の差は、日本が豊かになるにつれてますます大きくなり、ひいてはそうした安定性を追求する組織全体のモレール(意欲)を低下させ、やがて組織全体を破綻に導く恐れがある。(P.33-34)
 たとえば西欧の経済の停滞は、あまりにも急激に膨張した社会主義政策のせいだと言われている。・・・
 実働時間の長い日本の会社組織は、こうした西欧病にとりつかれていないように見えるが、安定を求めて集まった人間の集団は、会社全体がひとつの社会主義社会みたいなものとなる。・・・働くものの社会主義と言うのは社会主義思想そのものではないか。となると、日本全体の社会主義化を辛うじて防いでいるのは企業間の競争ということになる。もし企業間の競争がなければ、日本企業はソ連などの社会主義国の非能率的な企業内容と変わらなくなる。(P.34)

エンストロフィー
トロイツカヤ女史 磁場 OR 磁気
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2007年06月24日

だから、エントロピー 小出 玉野井 槌田 鶴見 廣 松

だから、エントロピー 小出 昭一郎 玉野井 芳郎 槌田 敦  鶴見 和子 廣 松 渉 一九八三年一二月一六日、エントロピー読本[T]1984http://entropy.ac/download/E1/E-2.pdf
作業のエントロピー
作業におけるエントロピー・コスト
作業 エントロピー。作用 エントロピー
覆水を盆に帰す仕事量。復旧修復保全の仕事量。未来永劫末代永久ランニングコスト仕事量。
再生作業のエントロピー。作業物質、リサイクル作業。廃物の処理・処分。

拾うというときには、選り分けるというよう. なことが当然入ってくる
あまりにも単位が違い過ぎうとか たし算ができないということになります けれどもね

簡単化 理想化 モデル できること やって 威張ってきた人種
ダーティから出発する方法論はないのか
鶴見 いけないのでなくて、方法論の問題です。


鶴見 話は変わりますけれど、ステーショナリー(35)という言葉に引っかかったことがあります。私がステディじゃないかと言ったら、ステーショナリーだと言う。そこで、この間電話で、渡辺慧さんにうかがったら、あれはドイツ語から出てきて、やはりステーショナリーである。循環がステーショナリーであって、そのものが動かないのではないという意味だと言われたので、わかりましたと言ったんです。そして、槌田理論というのがあるんだそうですねとおっしゃったので、私は槌田さんの理論にたいへん傾倒しているのだけどと言うと、あれはオープン・ステーショナリー・システムだけを考えて、それを理想型として考えているから、ああいう理論が出てくる。つまり、物理のピュア・タイプなんです。モデルだから、実際には存在しないピュア・タイプを考えている。すると、それはステーショナリーになる。ところがアンステーショナリー・システムをそごに導入しないと、生物系に応用できないという問題があると言うので、それをやってちょうだいと彼に特約したんです。
 だから今の話を聞いていると、玉野井さんがダーティとおっしゃるのは、もしかするとオープン・アンステーショナリー・システムをどうするかという問題ではないかと思います。

(36) stationaly.定常と訳される。流体や熱の流れなどのような動的な現象で、それらの状態を決定する物理量が時間的に変化しないとき、その現象は定常状態にあるという。

27ページ http://entropy.ac/download/E1/E-2.pdf
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2007年06月23日

社会思想史[正] 大河内一男

社会思想史 大河内一男著 ; [正] , 続 -- 改訂版. -- 有斐閣, 1964, 冊. -- (教養全書)

「憂鬱の科学」(P.2)

 ・・・カァライルが酷評したような「快楽の計算器」としてのミル・・・(P.228)

曰く「或る種の快楽は他のものよりもより望ましく、より価値ありとの事実をみとめることは、功利主義と相容れうる概念である。われわれが他の物を評価するのに、分量とともに品質を考慮に入れるに拘はらず、快楽の評価のみについては、ただ分量のみによるべしとするのは不合理である。」彼が「満足した豚」たるよりも「不満足なソクラテス」たることを選ぶと叫んだのも、まったく同じ精神においてであった。([正]P.230)

・・・この点についてエンゲルスはブロッホ宛の書簡のなかで次のように親切な解説を加えている、――「唯物史観によれば、歴史における究極の決定的要素は現実的生命の生産及び再生産である。それ以上はマルクスも私も嘗て主張したことはない。そこで、若しこれを経済的要素が唯一の決定的要素であるという風に曲解するなら、右の命題は無意味にして抽象的な無稽のたわごとに化し去るであろう。経済的状態は土台である。(下線はエンゲルスによる(傍点?))(P.304‐305)



社會思想史 大河内一男著 ; [正] , 續 -- 有斐閣, 1951.9-1954.2, 2冊. -- (教養全書)
曰く「或る種の快楽は他のものよりもより望ましく、より価値ありとの事実をみとめることは、功利主義と相容れうる概念である。われわれが他の物を評価するのに、分量とともに品質を考慮に入れるに拘はらず、快楽の評価のみについては、ただ分量のみによるべしとするのは不合理である。」彼が「満足した豚」たるよりも「不満足なソクラテス」たることを選ぶと叫んだのも、まったく同じ精神においてであった。([正]P.244)
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特集=あなたが考える科学とは[1]『科学』

特集=あなたが考える科学とは[1]『科学』Vol. 71No.4/5(2001年4+5月号)岩波書店
「スルメの製造」
和田耕作『石原純』(P.369)
長尾眞「セン氏は、パレート最適原理と民主主義は共存できないこと、利潤最大化原理がけっして普遍的な経済原理でないこと、そして物事の選択という人間行為と道徳判断とは切り離すことができないことを主張し、功利主義を退けた。」(P.372)
阿部龍蔵「第一に、科学の引き起こす罪をできるだけ少なくすることが肝心であると言う点である。功は最大に、罪は最小に、という一種の変分原理がこれからの科学の規範になるべきであると思う。第二に、私見であるが、科学の犯した最大の罪は自然のありのままの姿をうばってしまったということで、これはいわば科学の自殺である。月の出ない、天気晴朗な夜であれば、本来は戸外で降るような星空が観察できるはずである。」(P.373)
小平桂一「すべて、「生きもの」が本質的にもっている機能の発現だと考えている。」(P.375)
益川敏英「科学疎外」(P.376)
鶴見俊輔「ラベルをはっておけ」(P.381)
戸田盛和「そうしないと上に挙げたような人的災害に包囲されてにっちもさっちもいかなくなってしまう」(P.389)
高橋義人「科学と哲学の「再婚」ディルタイ『精神科学序説』1883年「目的関連」「合目的性」」(P.391-2)
松井三郎「自分の価値観で良きものを見抜く市民」(P.465)
山口幸夫「生命系の存続が何よりも大切だ」(422)
原田正純「水俣学」(424)
中山茂「80年代後半のゴルバチョフが冷戦に代る討議材料として「地球環境」を持ち出して以来、上から政治的に下に下ろされたテーマであって必ずしも学界や環境運動体に内発的ではなかったが、国際政治的問題として発生した意味は大きい。」「ライン川の汚染問題」(538)「40歳になって、回心があった。 68年革命 最後に地球環境科学に合流していく」(539)
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2007年06月22日

二律背反に耐える思想 今村仁司

二律背反に耐える思想
   ――あれかこれかでもなく、あれもこれもでなく
今村 仁司  思想、2007年第6号 No.998
国粋主義者三宅雪嶺がイニシアティブをとり社会主義者堺利彦を誘って「ルソー生誕200年祭」をよびかけたとき、藩閥政府反対を共通標語にしてあらゆる立場が賛同し結集したという(松尾尊兌『本倉』みすず書房、1983年、75ページ以下参照)。
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教育学の理論 教育学全集

教育学の理論 / 海後宗臣, 吉田昇, 村井実編. -- 小学館, 1967. -- (教育学全集 / 大河内一男, 波多野完治監修 ; 1)
これからの教育と教育学(大河内一男ほか)
大河内 ・・・お年頃・・・飛躍・・・
梅根 大河内さんの話を聞いて思い出したのだけれども、数年前に私は学術会議におって、物理学の学者諸君が共同利用研究所の問題なんかで協議会をやるというので、名大プラズマ研究所でやっておったのですが、そのときいろいろな話をしている最中に湯川さんが、「君らのやっている学問なんてものは学問じゃないじゃないか」といわれた。だれかが出した仮説を実証したり、データを集めて機械にかけて数字を出して、まちがっているとか、理論どおりになっているとか、そんなのは学問じゃないんだ、それは学問の技術労働者のやることだ。日本の政府は、そういうほうばかり金かけて、おれのほうの基礎物理研究所がやっているような研究には金をくれぬ。(笑声)おれのほうは、そんなことはやっておらぬ。計算もしない。おれの研究所にはテーマもないんだ。何をやっているかといったら、なんとなしに集まって、簡単にいえば、ただダベっているだけだ。雑談会をやっているのだ。そのダベっている中から何かが出てくるのだ。そんな研究を大事にしなければ、学問は発達しない。ということを盛んに協調しておられたのです。私もやはりそう思うのです。
大河内 ・・・結局飛躍できるということは、自分をあえて一人に突き放すことができる人間でなければならない。・・・
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自然主義の臨界 金森修

自然主義の臨界@amazon 金森 修 (単行本 - 2004/6)
目次
橋田邦彦の生動と隘路
 1.禅と自然科学の間
 4.全機性の生理学
摂食障害という文化
生物学から生命論へ
ベルクソンと進化論―二〇〇三年冬の序文とともに
カメレオンの情操―バルタザール・グラシアン論
科学論の設計的責務についての掌編
ジャック・ブーヴレス―フランス現代思想批判
 1.サイエンス・ウォーズ
人文学への弔鐘

橋田邦彦の生動と隘路 4.全機性の生理学
 ・・・政治家スマッツ全体論(holism)、ホールデン『生物学の哲学的基礎』、マイヤー『生物学的思想の危機と転回点』、橋田『生理学』下巻結論部「生物と環境との不即不離性」、マイヤーの翻訳者木村雄吉の後書「機械論と全体性、従来の二台対立思想である機械論と生気論を共に超克する新思想⇔全体論」、ゲシュタルト心理学 恒常仮説の否定、知覚の総合的性格への着目、脳病理学におけるゴールドシュタインの主張、ベルタランフィの有機体論、ユクスキュルの機能環や環境世界論など、(P.19-20)

 6.働くものなき働き

ジャック・ブーヴレス
 1.サイエンス・ウォーズ
 現代科学論(science studies)が科学を多様な文脈で激しく批判し続けたせいで、一般社会での科学のイメージが悪くなり、それが政策的側面でも科学に多くの損害を与え始めているという危機感をもった科学者たちは、一九九二年頃から散発的に科学論を明確に論敵として特定した反論を開始した。たとえば生物学者ウォルパートの『科学の不自然な性質』(一九九二)や、物理学者ワィンバーグの『最終理論の夢』(一九九三)などがそうだ。そしてその反攻は生物学者グロスと数学者レビットの共著『高次の迷信』(一九九四)に及んでいわばその最高潮を迎える。『高次の迷信』は、どれほど冷静な読者でも思わず感情的反応に駆られてしまうほどに激しく論争的な書物だ。そして科学者側の一連の反攻を受けて、科学論者の方も『ソーシアル・テクスト』というカルチュラル・スタディーズ系の重要な雑誌で特集号を組み、反批判を試みた。いわゆる「サイエンス・ウォーズ」の勃発である。(P.242‐243)
『アナロジーの罠』(P.254)
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わきまえの語用論 井出祥子

わきまえ@amazonの語用論 井出祥子 (単行本 - 2006/11)
日本文化は「高コンテクスト文化」である。
日本語で的確に表現するのは、「場・コンテクスト」をいかに適切に認識するかにかかっている。
言語理論のモデルは、常に西洋から来た。
しかし、「わきまえ」を理論化するためには、自前の理論装置が必要である。
1970年代に始まる自身の研究軌跡を集大成した井出教授の力作論考。

目次

序章 日本語はいかに日本文化と関わるか
第1章 「言うという行為」とモダリティ
第2章 ポライトネスの普遍理論
第3章 わきまえのポライトネス
 3.4.わきまえのスーパー・システム
 3.7.ミクロとマクロのわきまえ
第4章 敬語のダイナミックな動き
第5章 敬意表現と円滑なコミュニケーション
第6章 女性語はなぜ丁寧か
第7章 ホロン構造型社会の言語使用
 7.6.ホロン型社会のインフラとしての日本語の二層構造
 7.8.ホロン・システムの中の「よろしくお願いします」
第8章 “複雑系”社会の日本語

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